五色と二次の海につかる、日記

俳優/劇作家/アニメライターの細川洋平による日記・雑記です。

最近亡念のザムドを見おわったのでネタバレしまくる感想などを書きます。

Bones制作、宮地昌幸監督の『亡念のザムド』を全話見終わりました。

先日、ゲンロンカフェで開催されたトークイベント
『意外と知られていない現代アニメの作り方』
に参加しようと思い立ってから見始めていたものです。

あいにくイベント前に見終わるところまでは行きませんでしたが、幸いトークイベントでは冒頭部分や、物語の根幹部分(企画の立ち上がり方など)や、OPのことなどを中心に進められていったので、かなり楽しく参加させていただきました。

さて、ザムドの感想を。

まず、『亡念のザムド』は2008年、2009年に放送されたアニメ作品ですのでおそらく多く感想などもネットに上がっていることと思います。レビューなどもきっと多いと思います。
今回はあえてそこを経ず、まずは自分の感想を書こう、という思いでいます。

宮地監督はそもそもスタジオジブリに参加されていた方なので、キャラクターやBGにその名残は多分に感じられます。もちろんぼくもそのテンションで見始めました。

すると第一話目で、さっそく「おっ」と思いました。
ナキアミがビートカヤックと呼ばれる小型の飛行機で飛びだすシークエンス。
ラビュタが始まったのか! と。そもそもビートカヤックという乗り物自体どことなくフラップターですし、飛びだす機構もなんとなくタイガーモス号から射出される感じに似ているし、これはなんてこった。などと。

先に列挙しますと、ザムドを見て連想したアニメ作品は『未来少年コナン』『ナウシカ』『ラピュタ』『もののけ姫』などのジブリ作品、『ラーゼフォン』『交響詩篇エウレカセブン』です。ああ、これはこの成分かなー、と、シーンシーンで連想しながら視聴していました。

  • 何かに似ていることと作品の評価は別

それは作品が「いい」「悪い」ということではなく、ただ自分がそう連想できたからしているだけで物語の評価とは別の話だと思っています。「監督はこういった世界を通してこの物語を築き上げてきたんだな」と思いました。

トークイベントの際、監督はこの物語は、ほんの数行のメモ書きから始まった、といっていました。そこからふくらませて、仕事の合間にイメージボードなどを描きこの作品に取りかかるときには物語の大枠は出来上がっていたそうです。

さて。物語は、とある島に住む高校生が、偶然ウイルスのようなもの(ヒルコ)を植え付けられ、人外になってしまうことから始まります。
ヒルコは寄生獣のように人間とは別の存在なので、寄生された人間の意のままにはなりません。共に生きるか、ヒルコを拒絶して石(死に近似)となるか。ある意味ガン細胞のようなものなのでしょうか。

全編を通して気になった点は、ストーリーテリングの部分です。
登場人物たちは時おり何かの引用(監督の話ではとある人の詩集など)をしたり、雰囲気のある古風な言い回しを汎用します。
これは個人的な教養の範疇ですので苦もなく理解する人もいるでしょうが、恥ずかしながらぼくは難しい言い回しが出てくると何度か繰り返し聞いて、「ああ、そういうことか」とやっと納得する、という感じでした。
情緒のあるセリフは雰囲気や世界観を盛り上げる装置にもなり得ますが、それが続くと見ている方が、「じゃあこの世界のこと理解すんのやめる」となる危険もあるので、監督は強固な意志を持ってこのテイストを通したんだなと思いました。

セリフ回しの部分で、叙情的な散文的なものを多く入れ込むことで、おそらく「セリフの奥の世界を想像させるトリガー」にしようとしているのだなと感じることもありました。
ぼくはその部分で、世界観を取りこぼしている実感があり、おそらく二度目の視聴はよりおもしろく見られるはずです。

ヒルコを体に宿した人間はザムドと呼ばれる人外生物になります。
物語では主人公のアキユキ、親友フルイチ、雷魚、ヤンゴ、クジレイカ、そしてミドリなどがなります。
それぞれがザムドになるきっかけというか、筋道は全て異なる為、ここで少し混乱しました。つまり、どういう状態でザムドになるのか。ここは注意深く見ていないと完全に置いてきぼりになる気がします。
ヒルコを体に宿す描写は意図的に「事故」っぽく処理されており、たとえばフルイチなどはその描写は出てきません。出てきていたとしても、初見では気づきません。
ミドリに関しても、大きな装置と一体化させられるのですが、その装置の詳しい説明や描写が省かれているため、どうしてはっきりとこうなったのかはわかりません。わかる人ももちろんいると思いますが、軍でのミドリの実験関連では、先ほど述べた叙情的なセリフが多く、具体的に何を示しているのかはっきりと明かされないのです。

  • だからわからないということではない

それらの事象を過剰に説明しないこと、世界観を維持した台詞回しを続けること、ザムドという作品をそのまま受けとることで、見えてくるものがありました。
具体的なメッセージとしては、「細かいことは気にするな」です。
設定はかなり作り込まれているはずで、見えるのは氷山の一角。物語の強度は揺るがないという判断があったからこそ、あえて描かなかった部分も多かったと思います。

  • 女性が強い

いやー、強い。ナキアミ、ハル、アキユキの母・フサ、伊舟、ユンボ、クジレイカ、ブロイ、須磨子、ミドリ。みんな、何かを抱えながら、何かを引き替えに前を向いている人ばかりです。

  • 前を向いて待つ/進む

最終話、アキユキを待ち続けるハルと、ナキアミを待ち続けるヤンゴ、という四人の存在はいいなと思いました。待っているハルもヤンゴも、それぞれがちゃんと成長していたことも。「待つ」ということは「立ち止まる」こととは違う。それをハッキリと描いていました。

このままうだうだと書いてしまいそうです。

  • 作品から受けとったメッセージ

「前を向いて進め」というキーワードは頻出するのでもちろん。
印象に残ったのは、親の存在です。
かつては若かっただろう親父お袋たち。彼らの奮闘がかなりの分量で描かれます。
最終話でハルの述懐でも出てきますが、向こう見ずに夢だけを追いかけられていた若い頃とは違い、理想と現実の狭間で揺れながら、多くの理想を諦め現実と折り合いを付け続けてきた大人たち、その彼らが、今一度、夢を抱いている世代の為に立ち上がる。追いかける。走る。
大人の役割、と、大人でもできること、それをどうしても描いておきたい、という強い思いを受けとりました。
ぼく自身、配偶者や子どもはいませんが、彼らの親に近い年齢になりましたし、二十代よりずっとずっと共感して見ることができていると思います。
夢を繋げること、人を思うこと、思いを伝えること。

最終回で、物語は9年を経ます。(Bパート)。
なんですと〜、と字幕を見たときは思いました。見て納得しました。登場人物たち、それぞれにちゃんと結末を、あるいは物語の続きを、あるいは人生を用意している。それを描きたかったんだなと。特に頭に拳銃の弾をぶち込まれた凍二郎が一命をとりとめていたという場面には吹き出しました。盛大に心で突っ込みながら、よかったなあ、と喜んでいる自分がいました。もちろん、一番最後のアキユキも。

物語に悪人は出てこない。ステレオタイプに落とし込むことなく、ミスリードで悪人を仕立てていく。でも実は善意のつもりで進みたどり着いた先が、主人公側から見ると「悪人」と見えるものになっていた。
こうやって成分だけ分解して書くとよくありそうなものですが、要はそれをどういうアプローチで描いて行くか。そこに作品の魂は宿るのかなと思います。

  • 盛大なネタバレのフィナーレは

「ずっと言えなかった言葉」をアキユキとハルは最後にかわします。
(余談ですが『言えなかった言葉を言うよ』といったセリフがあると、エヴァで加持がミサトの家の留守電に入れていたのをいつも思い出します)

アキユキとハルは「愛してる」と言葉を交わします。
その時、二人はお互いの顔を見ていません。
特にアキユキは海から視線を離さず、後ろから隣へと歩いてきているハルに向かって言います。
「なにちょっと、失礼じゃない? 超テキトーなんだけどー」と、一瞬ぼくの中の女子高生部分は言いかけました。でもそうじゃないですね。
二人は常にお互いの存在を目の前に感じることができるから、面と向かうことなんて必要なかった。
9年もの間、ハルは石となっていたアキユキに話しかけ続けてきた。そしてその言葉を「ずっと聞いていたよ」とアキユキは言います。
将来、もしかしたら別居して、アキユキの両親、リュウゾウとフサのように険悪になっているかもしれません。だけどきっとそれは「嫌い」だからではなくて、お互いの感情のすれ違いがそうさせるだけ。その時はまた「言葉」を相手に「届け」ることで、元に戻るんだろうな。そんなことを想像させるシーンでした。
また、二人が見つめ合うことで二人の世界を完結(閉じ)させるのではなく、大きく広がる海へ向けたことで、「前を向く」こと、また二人の未来は明るいんだろうな、と思わせ、実に優しい終わりでした。


それにしてもアクシバ……、お前、いいやつだぜ! 幸せになれよ!

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