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五色と二次の海につかる、日記

俳優/劇作家/アニメライターの細川洋平による日記・雑記です。

すっきりさせてはいけない。/スペインアニメ映画「しわ」を見る

なんてものを見てしまったんだろう。

早稲田松竹で上映していた「しわ」を見たときの率直な感想だ。

「しわ」はスペインのイグナシオ・フェレーラス監督によるアニメ作品で、スペインのアカデミー賞と呼ばれる第26回「ゴヤ賞」において「最優秀アニメーション賞」「最優秀脚本賞」を受賞した。

原作はスペインの漫画家・パコ・ロカの「皺」。こちらも第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門で「優秀賞」を受賞している。

フェレーラス監督は日本のアニメーションから多くのものを学んだと語る若手実力派アニメーターで、1972年生まれ。40過ぎの監督。若い。(参考:三鷹の森ジブリ美術館公式サイト

「しわ」は三鷹の森ジブリ美術館の配給で日本公開された。

そもそも三鷹の森ジブリ美術館では、宮崎駿高畑勲両監督の薦める世界の名作を取り上げたり、まだ知られぬ世界の名作アニメを日本に紹介する活動を行っている。

日本初の本格的なアニメーション美術館である三鷹の森ジブリ美術館は、「世界の優れたアニメーション作品をもっと多くの人に知ってもらいたい」という理想のもと、企画展示という形で世界のアニメーション作家やスタジオを取り上げてきました。

しかし、宮崎駿館主が、「アニメーションは一幅の絵を見るように、一画面を額に飾って云々するものではなく、動いてこそ価値がある。」と言うように、展示やイベントにとどまらず、アニメーション作品を映像として紹介していくことも必要です。

こうして、劇場公開とDVD化を2本柱として“三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー”の活動は始まったのです。

三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーについて

「しわ」がどうして三鷹の森ジブリ美術館の配給となったのか。それはフェレーラス監督の働きかけによるらしい。

フェレーラス監督が高畑勲監督の大ファンで高畑監督に見てもらうために、日本語字幕版を製作し送ったことだったという。

まんたんウェブ・イグナシオ・フェレーラス監督インタビューより)


自分から働きかけることで何かがはじまる。なんにしろ、自分から動かないかぎり、はじまらない。(というのは自戒を込めつつ)


さて、肝心の内容。
老人介護施設で過ごす老人たちの物語だ。中でも中心人物のエミリオは認知症を発症しつつある老人。同室で生活することになったやや胡散臭いミゲルや、友人となったアントニアらと日々を過ごしていく。

ぼくたちは認知症となった人から見える景色をハッキリと捉えることができない。自我がどうなっていくのか、どの時点から記憶が抜けていくのか、過去の混同はどのように起きるのか。それはほとんどが、他人の事象としてしか認めることができない。(たとえば久しぶりに会いに行った祖父・祖母に、お世話係の人と間違えられたりすること)

内的体験として得ることができない感覚を、「しわ」では、その全てでないにしても疑似体験させてくれる。

エミリオが初めて施設に訪れたとき、描写は小学校時代のエミリオが、転校生として教室を歩き、同級生たちに奇異の目を向けられる。感覚的な共有、記憶のリンクがそうして描かれるのは、多少大げさかも知れないが、衝撃的だった。

終の住処、そこに立ちのぼる空気は、どちらかといえば、閉塞的だ。
介護施設を舞台として、老人を描く作品となれば、暗く重くなる、そう予想しがち。だけど、「しわ」はそうではなかった。
人が生き、誰かと言葉を交わす限り、そこにはかすかにでも「喜び」が生まれ得る、そういっているようだった。

ユーモアを交えたカットもそうだが、語りすぎない演出も秀逸。

記憶というものはいったいどこへ行くのだろう。

数年前から個人的に直面している問題として興味深く見られたし、誰しもが今後、そうなっていく問題として、「見る/見ない」の二つの選択肢しかないのであれば、「見る」べきだと思う。

ただ、「しわ」はお涙ちょうだいの感動作ではない。
たとえば「泣く」作品ではない。鑑賞中にそう思ったのは事実だ。
「泣く」ことで、何か整理のつかない感情が体から流れ出てしまう、そう思った。
すっきりさせてはいけないんだと思った。
もし、自分がエミリオだったら、泣かれるのは悔しいことだろう。
これは「受け容れる」作品だ。
涙を流すというものは、作品の内側にいる人間だけに許された行為なのではないか。

映画や演劇で、ラストは救いがあった/なかった、というようなことをいうが、
「しわ」はいったいどうだったのか、わからない。
それこそ現実と混同しているのかも知れないが、
「ラスト」がいったい何にあたるのか、わからない。
映画の締めくくりなのか、それとも、彼らの往生の時なのか。
そもそも、「ラスト」なんて言葉自体が不適切なのかも知れない。
続いていく人生の中で、身近に訪れる出来事をどう捉えていくのか、
これから訪れる出来事にどう取り組んでいくのか。
そのことを考えるきっかけになる、すばらしい作品だった。


個人的に、幼少期にペルー(スペイン語圏)に住んでいたこともあり、
スペイン語の響きが、ふしぎな感覚をもたらしていた。
記憶はいったいどこに行くんだろう。
記憶はどこにあるんだろう。


貴重な映画体験だった。