五色と二次の海につかる、日記

俳優/劇作家/アニメライターの細川洋平による日記・雑記です。

「アイドルのステージング:でんぱ組.incの場合」

2014年ライブはじめは、でんぱ組.incのZeppDiverCityTokyoワンマンライブでした。

でんぱ組を見るのは初めてで、昨年頭に行っていたZeppTokyoでのライブに行けなかったのが特に悔やまれており、今回念願かなって、といった形での参戦となりました。昨年頭のライブというのはWWD発表直後に行われたライブで、レポなどでも見られるように、メンバー一人一人が自分の過去を語るMCを挟んだ上でのWWDという、非常にエモーショナルな演出で観客を魅了したと聞きます。

MARQUEEブログ参照
古川未鈴オフィシャルブログ『みりんに向かってBダッシュ!!』「ZeppTokyoワンマンについてくわしく」

今回は2ndアルバム『WORLD WIDE DENNPA』リリース記念の全国ツアーとのことで、東名阪(福岡)Zeppに加え、全国各地のライブハウスを回るものになるようです。ぼくが行ったのは1月5日。ツアー2日目でした。

決して同列には語れないでしょうが、舞台にも初日があり、千穐楽があります。初日というのは観客の反応がどうなるものなのか、未知数の中で行われるのでとても緊張します。演じていく中で、各パート、各シーンがどういう受け止められ方をしていくのか、演者にとっても発見に溢れています。2日目は、初日のリアクションを踏まえた上で進められるため、リラックスと緊張の程よい交わりの中で本番に臨めることが多いというのが実体験を経ての感想です。

でんぱ組も同じだったようで、メンバーがMCで「昨日は緊張してヤバかった」と言っていました。人前に出てパフォーマンスをする以上、緊張しないなんてことはありえないでしょうが、初日の緊張は他の日とはことなるものがあるのです。

ライブ自体はアルバムの曲を中心に、というか、ほぼ全曲パフォーマンスし、途中にその日担当のメンバー(1月5日はねむきゅん)のソロ曲が一曲入る、というものでした。
2階席にはイスがありましたが、1階はオールスタンディング。どうなるかな、と思っていましたが、想像以上にいいライブでした。

Zeppクラスでのアイドル・ワンマン・オールスタンディング・ライブをぼくは三度しか経験がありません。2013年9月のBiSと、2012年11月11日の私立恵比寿中学『ウィンターデフスター極上ツアー』第二部『文化祭』です。そのうち、エビ中のライブ中に、後ろのお客さんに強めの肘鉄を受けたことから「オールスタンディングライブのイヤな経験/イヤな会場」として記憶に残ってしまったのです。BiSはライブがパンク・メロコアなどのスタイル(ダイブ・モッシュが普通に起こる)なのでオールスタンディングじゃないと、と思っているのですが、サイリュームをきっちり振って、コールをちゃんとして、というライブでは、オールスタンディングは逆に怖いなあと思うようになってしまいました。特にすごくきっちり応援したい古参の前にもし自分が来てしまったら、中途半端な応援やコール、タイミングのずれたサイリュームというのは目障り(?)などと考えてしまうのです。もちろん、そういうことのないようにきっちり予習していけばいいんですけどね……。

でんぱ組のライブでもそんな心配をしつつ、それでも前の方で見たい!と思い、最前ブロックに行きました。すごくすごく楽しかった。おそらくぼくと同じく新規組が多く参戦していたからだと思います。古参の人と新規と、ほどよいブレンドになっており、コールも窮屈じゃないしサイリュームを振るタイミングもももクロほど「やべ!」とならない。予習というか、曲を聞き込んでいくことはもちろん前提にはなりますが、曲をちゃんと聞き込んでいけば、サイリュームを振るタイミングはわかってきます。
〈※ライブ会場で買った緑(ねむきゅんカラー)と赤(みりんちゃんカラー)のサイリュームは1時間も経たずに力尽き、最終的にはプラスチックの棒を振っているだけになりましたので、ペンライトでなく、サイリュームを用いる場合は各色三本くらいご用意ください〉

ちなみに冒頭で書きました、2013年1月22日のZeppTokyoワンマンで初お披露目された「ORANGE RIUM」では、文字通りオレンジのサイリュームが灯され、個人的にはももクロの「走れ!」の暗転中のサイリュームに匹敵する、ファンと会場と、メンバーが一体になった素敵な曲だと思います。オレンジのサイリュームは会場では最初に売り切れる色らしいです。前もって準備して行くことをおすすめします。

(↑DVDになっている大阪城野外音楽堂ライブので『ORANGE RIUM』。涙)

夢眠ねむオフィシャルブログ『ユメミる世界日記』「ワールドワイドでんぱツアー2013 in ZEPP TOKYO」

でんぱ組の曲はBPMが高いので、コケティッシュな振り付けも想定以上にはいやらしくならず、コミカルに昇華されます。時おりオタ芸を挿入したり、「でんでんぱっしょん」では新体操のリボンが取り入れられたり、次から次へと展開して行くダンスは見ていて全く飽きません。電波ソングに「でんぱダンス」。見ていてとても気持ちがいい。

どうしてこんなに気持ちがいいのか、ちょっと考えてみました。

【角度が揃っている】
当たり前なんですけど、6人の肘や腕、膝の曲げ方、ほぼ角度が同じです。揃える部分は揃える。基本でありながら達成されるにはそれなりの練習と意思疎通、共通認識が必要になります。

【速度が揃っている】
これも当たり前ですが、腕を回したり足を運んだり、それらのスピードが同じです。角度と同じく自分の速度と他のメンバーの速度を主観的、客観的に把握している必要があります。個人的にゾクゾク来たのは、ライブの一番初め、暗転中に6人が舞台袖からステージへ歩いてくる瞬間です。全員整列し、等間隔で足早にステージへ現れます。そこには、「照明が当たるまでアイドルははじまらない」「照明がついたらもう、後戻りはしない」という強い意志を感じ、胸が熱くなりました。そこまで気を配ってステージングがなされています。

ダンスが物語】
ダンスにそれほど詳しくないくせに書きます。ダンスにはいくつかの型があり、組み合わせることでレパートリーを増やしていきます。ぼくが知っているのだと、ボックス。くらいです(笑)。誰でも知ってるか……。ステップでボックス踏んで、上半身でこれをする、という形でダンスは組み合わされていくのだと想像しますが、歌に対する振り付けではそれと同時に、歌詞との符合という課題が出てきます。歌詞に合わせるのか、あえて無視するのか。歌詞の物語に則って振り付けるのか、多少歌詞を無視してでも曲調に合わせて踊るのか。振り付け担当の方の裁量によるとは思いますが、バランスがとてもいいです。立ち位置、移動、フォーメーション、マイム、いろんな方法を使って視覚的に「でんぱ組.inc」を伝えようとしているのが手に取るようにわかります。

おお〜、と思ったのは、BiSとのツーマン。ぼくは現場に行けなかったのですが、幸い『WORLD WIDE DENNPA』のDVD付き初回限定盤にBiSの「IDOL」をカバーしたライブ映像があり、その曲だけでも見ることができました。完全なでんぱアレンジ。イントロで、一人ずつ、一歩一歩進みながら指さしをしていく振り付けに鳥肌。そもそも「IDOL」はハードコア/レイブメタルな曲で、BiS楽曲の中でも無数のダイバーが発生するキラーチューンです。その文脈をも加味してのその振り付けか!という感動がまず生まれました。終盤での、円になってマイクを顔の高さに持ってくる振り付け。メリーゴーランド!ゆっくりと交互に上下していく6人は夢の中にいるかのようです。そして激しくヘドバンしていたかと思うと、ふとストップして目が覚めたような表情。そこここに表現/感情が溢れていました。それは「振り付け」でしかないかもしれません。本人たちは「そのように振りを踊っているだけ」かもしれません。それで十分。曲を曲以上に音楽として伝える彼女たちに、(しかもいとも簡単にやっているように見えます)深いため息が。

【歌がうまい】
ライブではみんな生歌なんですね。そして、うまい。下手ではない。ソロパート、各キャラが立っていて、すごくうまいメンバーがいて、突出して下手な人がいません。ぼくにはみんながうまく聞こえています。だから気持ちいい。

↑ライブを見ていて、いい!と思ったのはここら辺りです。

あとはスタッフワークもいいなあと思いました。照明が特に。6人がステージに立った時に、ちゃんとスポットが当たること、しかもかなりタイトな明かりであることはとても重要だと思います。照明は立ち位置やタイミングがきっちり決まっていないとバシッと作れません。こういう部分で臆せずスポットをバンバン使っているのを見ると、「すごい、作り込んでるなあ!」と思います。照明がぽわんとゆるいとどうしても視覚的にも印象的にもぼんやりするので、見ていてあまり感動しません。

初めてでんぱ組.incのライブに行きましたが、本当に行けてよかった。(東京ではZeppもソールドアウト。他の地域ではまだチケットあるそうです!)

サプライズで日本武道館公演が発表になりました。びっくりと感動と涙と、が入り交じる中、確かにもがちゃんは呆然とした印象でした。感動というより、戸惑いだったんですね。それはもがちゃんのブログに綴られておりました。

最上もがオフィシャルブログ『もがたんぺぺぺ』「暗い話」

ほんの一瞬、たった一時間半、同じ時間を過ごしただけのぼくには計り知れない苦悩や葛藤もあると思いますが、とにかく、とにかく、ひとつの通過点として、日本武道館公演を成功させてほしいなと思いました。そして、きっとパフォーマンス的には大丈夫なんだろうなと。あとは、集客。ここはもふくちゃんが!ぼくも行けたら行きたいです。

ちなみに2ndアルバム『WORLD WIDE DENNPA』はすごくいいアルバムですので、ぜひ聞いてみてください!

というところから、次のエントリではBiSの話へ。

2013年を振り返ってみるけど、総括とかはしないでみる。

あけましておめでとうございます。
昨年ご来訪いただいたみなさま、本当にありがとうございました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

  • アニメ映画見たリスト2013

けっこう見たという実感もあるのですが、見られなかったものもあり。「劇場版 銀魂」などがいい例で、とても評判がよかったのになぜ見逃したのか、という。劇場で見たものをザッとリストアップし、簡単な感想も沿えてまいります。

  • 「AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜」

2012年の「中二病でも恋がしたい!」大ラスのナレーションに悶々としてしまって、いろいろ調べていたら、「中二病」を扱った作品があると知り出会ったのが「AURA」(ガガガ文庫)でした。「人類は滅亡しました」の田中ロミオ著。原作に感動。劇場版も鑑賞。キャラクター原案はmebaeさん。mebaeさん独特のフェティッシュな雰囲気を出すのはそりゃ難しいだろうとは思いつつ、ストーリー、押さえる部分はしっかり押さえていて満足。原作同様中盤〜終盤の息も詰まるような展開がとても好きです。

「花咲く〜」はTVシリーズがキラキラ輝いており、かなり感情移入して見ていた作品でした。どうなるかと不安もうっすらあった劇場版も、フタを開けてみれば実に濃密でした。上映時間は70分弱。その中に様々なエッセンスが破綻なく丁寧に盛り込まれていました。緒花が菜子の代わりに泣き出すシーンで「お前が泣くなよ!(笑)」と心で突っ込みつつ感涙。「走り出す」っていいですね……。

新海誠監督最新作。こちらも60分の中編。いろはと同じく実に濃密な作品でした。「星を追う子ども」にいまいちピンと来なかったので、果たしてどうなるんだろうと思っていましたが、微妙にすれ違う心と心象風景としての新宿御苑の雨の描写がひたひたと胸に染みわたりました。改めて、「雨って美しいな」と感じられる国に生まれてよかったなあ実感しました。新海監督にはこれからも季節を描いていって欲しいなと思います。

  • 「ハル」

木皿泉脚本、WIT STUDIO制作ということでとても期待していた作品でした。各パートは盛り上がっていたし、ラストへ至る感情曲線の描き方もとてもうまいなと思ったのですが、いまいち乗り切れず。気のせいかも知れませんが、途中に出て来るキリンの像の縮尺がカットによってまちまちだったような……。そういうディテールが気になってしまったのと、キャラクターの描写がちょっとステレオタイプかなと。特に喫茶店でくるみが泣くシーンでは「ここでそういう泣き方はしないんじゃないかな」という気持ちが生まれてしまいました。全体で見ると間違いなく狙った(作品として正しい)演出だと思うのですが、違う選択肢で見たかったです。あーだこーだ考えつつも鑑賞後の満足度はけっこう高かったです(笑)。

3DCGすげえ!というのが率直な感想です。「スターシップトゥルーパーズ インベイジョン(STi)」もすばらしかったですね。ただ、STiハーロックでの大きな違いは、たぶんですが、無機質なものを描くか、有機的なものを描くか、という部分だったと思います。ハーロックは有機的なものをCGで描くということに果敢に挑戦している印象でした。また、世代的にネイティブで松本版ハーロックに憧れを持っていないので、上の世代の方々とは違う見方になっているだろうとは思います。

宮崎駿監督は本当に引退してしまうんでしょうか?

第一章はDVDで。第二章は劇場で。TVシリーズとは監督も脚本も違う、だけど見事にコードギアスでした。CGとなったKMFが動く動く。カメラワークも非常にアクティブになり、ロボットアクションものという観点でも実に満足のいく作品でした。そして何と言っても「コードギアス」の名を冠するからには、な展開が。第三章はよ……はよ……。

凸守と六花が動いていて幸せ……。そう思える作品です。とても幸せです……。

どーせ泣かせにくるんでしょう、と構えて見ていながら、開始10分ほどで涙腺が。「こんな清々しい表情しねえ!」だの「そんなセリフ嘘だし!」だのと心の中で汚くつっこんだりもしましたが、涙不可避。号泣してしまい終わった時には目が真っ赤でした。ただただ泣ける、という作品はいつもと違う神経を使うのでとても疲れます。しかし予想以上に新作カットが多くてうれしかった。

今だ解釈に悩んでおります。この何とも言えない感情を、あえて言葉にしない、という状態に今もいるので、とても語りにくい。

学園もの&バトルものとしてかなりテンションの上がる作品でした。続きがたのしみです。

  • 「しわ」

スペインのアニメ作品です。前のエントリで書いているので多くは語らず。機会があればぜひ見ていただきたいです。

  • 「パリ猫ディノの夜」

フランスのノワールアニメ。痛快でおもしろかったです。ふと、ディズニーアニメでは平面(横)の移動が多く、前後の描写はあまり得意ではない、といった誰かの言葉を思い出しました。この作品もキャラクターの移動は主に横。そういう部分を考えても、日本のアニメはヴァラエティー豊かだと実感しました。早稲田松竹で「しわ」と併映。先にこちらを見たのですが、それで正解でした。

AKIRA」の作画監督などを務めてきた名アニメーターなかむらたかし監督作品「冩眞館」そして、気鋭の若手、石井祐康監督作品「陽なたのアオシグレ」。池袋シネ・リーブルで同時上映されていたので見に行きました。「冩眞館」はサイレントアニメ。先日お笑いバラエティ「イロモネア」の再放送があり見ていて思いだしたのですが、ぼくは“サイレント”がとても好き。それは想像力をかきたてられるから。「これはこう言ってるんだろうな」「こう返して」「なんでそこでその顔(笑)」と心の中で楽しめます。観客といっしょになって作品を作り上げる感覚というのでしょうか。それもあって「冩眞館」はとても染みました。そもそもセリフの必要がないほどアニメーションが緻密に積み上げられており、月日の流れも実にうまく表現されています。アニメーションならではの定点観測と時間跳躍。さらには人物の心理をうまく想像させる喚起性。脱帽。思いもよらずこみ上げる涙を抑えられませんでした。「陽なたのアオシグレ」は一転、実に躍動感溢れた17分の短編アニメーション。スピッツの楽曲「不思議」とリンクする筋書きは少年の想像力とアニメならではの演出をふんだんに使い、「半径3メートルのスペクタクル」といった趣。個人的な好みで言えば、セリフ抜きのアニメーションが雄弁に語りかける「冩眞館」でしたが、若手である石井監督の作品も今後が実にたのしみです。藤津亮太さんのインタビュー(←リンクあります)によると、短編を作っていたい、とのことですが、ニーズがきっと長編を欲しているでしょうから、ぜひとも長編を見てみたいものです。それにしても「スタジオコロリド」、また要チェックなアニメスタジオが。

  • 「サカサマのパテマ」

イヴの時間」の吉浦監督最新作。佐藤順一監督のツイートに強く頷いた次第です。

鑑賞後もかぐや姫という女性の半生をしばらく考えていました。人生でこれほどかぐや姫について考えたことはありませんでした。多くの人に観ていただきたいし、その後いろいろと話し合いたい気分になります。先日の飲み会で同席させていただいた小川びぃさんが仰っていた「かぐやだけが、現代の価値観に生きてるんですよね」という言葉に超同意です。個人的にはそこがよかった。好きなカットは「裏の庭園の古里を再現したミニチュアを覗き込む、媼と、髪をアップにしたかぐや」です。

以上です。
改めまして、本年もどうぞ、よろしくお願いします。

※1/3に「冩眞館/陽なたのアオシグレ」を追記しました。

すっきりさせてはいけない。/スペインアニメ映画「しわ」を見る

なんてものを見てしまったんだろう。

早稲田松竹で上映していた「しわ」を見たときの率直な感想だ。

「しわ」はスペインのイグナシオ・フェレーラス監督によるアニメ作品で、スペインのアカデミー賞と呼ばれる第26回「ゴヤ賞」において「最優秀アニメーション賞」「最優秀脚本賞」を受賞した。

原作はスペインの漫画家・パコ・ロカの「皺」。こちらも第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門で「優秀賞」を受賞している。

フェレーラス監督は日本のアニメーションから多くのものを学んだと語る若手実力派アニメーターで、1972年生まれ。40過ぎの監督。若い。(参考:三鷹の森ジブリ美術館公式サイト

「しわ」は三鷹の森ジブリ美術館の配給で日本公開された。

そもそも三鷹の森ジブリ美術館では、宮崎駿高畑勲両監督の薦める世界の名作を取り上げたり、まだ知られぬ世界の名作アニメを日本に紹介する活動を行っている。

日本初の本格的なアニメーション美術館である三鷹の森ジブリ美術館は、「世界の優れたアニメーション作品をもっと多くの人に知ってもらいたい」という理想のもと、企画展示という形で世界のアニメーション作家やスタジオを取り上げてきました。

しかし、宮崎駿館主が、「アニメーションは一幅の絵を見るように、一画面を額に飾って云々するものではなく、動いてこそ価値がある。」と言うように、展示やイベントにとどまらず、アニメーション作品を映像として紹介していくことも必要です。

こうして、劇場公開とDVD化を2本柱として“三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー”の活動は始まったのです。

三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーについて

「しわ」がどうして三鷹の森ジブリ美術館の配給となったのか。それはフェレーラス監督の働きかけによるらしい。

フェレーラス監督が高畑勲監督の大ファンで高畑監督に見てもらうために、日本語字幕版を製作し送ったことだったという。

まんたんウェブ・イグナシオ・フェレーラス監督インタビューより)


自分から働きかけることで何かがはじまる。なんにしろ、自分から動かないかぎり、はじまらない。(というのは自戒を込めつつ)


さて、肝心の内容。
老人介護施設で過ごす老人たちの物語だ。中でも中心人物のエミリオは認知症を発症しつつある老人。同室で生活することになったやや胡散臭いミゲルや、友人となったアントニアらと日々を過ごしていく。

ぼくたちは認知症となった人から見える景色をハッキリと捉えることができない。自我がどうなっていくのか、どの時点から記憶が抜けていくのか、過去の混同はどのように起きるのか。それはほとんどが、他人の事象としてしか認めることができない。(たとえば久しぶりに会いに行った祖父・祖母に、お世話係の人と間違えられたりすること)

内的体験として得ることができない感覚を、「しわ」では、その全てでないにしても疑似体験させてくれる。

エミリオが初めて施設に訪れたとき、描写は小学校時代のエミリオが、転校生として教室を歩き、同級生たちに奇異の目を向けられる。感覚的な共有、記憶のリンクがそうして描かれるのは、多少大げさかも知れないが、衝撃的だった。

終の住処、そこに立ちのぼる空気は、どちらかといえば、閉塞的だ。
介護施設を舞台として、老人を描く作品となれば、暗く重くなる、そう予想しがち。だけど、「しわ」はそうではなかった。
人が生き、誰かと言葉を交わす限り、そこにはかすかにでも「喜び」が生まれ得る、そういっているようだった。

ユーモアを交えたカットもそうだが、語りすぎない演出も秀逸。

記憶というものはいったいどこへ行くのだろう。

数年前から個人的に直面している問題として興味深く見られたし、誰しもが今後、そうなっていく問題として、「見る/見ない」の二つの選択肢しかないのであれば、「見る」べきだと思う。

ただ、「しわ」はお涙ちょうだいの感動作ではない。
たとえば「泣く」作品ではない。鑑賞中にそう思ったのは事実だ。
「泣く」ことで、何か整理のつかない感情が体から流れ出てしまう、そう思った。
すっきりさせてはいけないんだと思った。
もし、自分がエミリオだったら、泣かれるのは悔しいことだろう。
これは「受け容れる」作品だ。
涙を流すというものは、作品の内側にいる人間だけに許された行為なのではないか。

映画や演劇で、ラストは救いがあった/なかった、というようなことをいうが、
「しわ」はいったいどうだったのか、わからない。
それこそ現実と混同しているのかも知れないが、
「ラスト」がいったい何にあたるのか、わからない。
映画の締めくくりなのか、それとも、彼らの往生の時なのか。
そもそも、「ラスト」なんて言葉自体が不適切なのかも知れない。
続いていく人生の中で、身近に訪れる出来事をどう捉えていくのか、
これから訪れる出来事にどう取り組んでいくのか。
そのことを考えるきっかけになる、すばらしい作品だった。


個人的に、幼少期にペルー(スペイン語圏)に住んでいたこともあり、
スペイン語の響きが、ふしぎな感覚をもたらしていた。
記憶はいったいどこに行くんだろう。
記憶はどこにあるんだろう。


貴重な映画体験だった。



最近『フリクリ』を見たのであんまりネタバレしてない感想を書いてみます。

またしても最近見ました。

今期『キルラキル』で活躍されている今石監督も参加されていた『フリクリ』に関して、メモ的な感想を書こうと思います。またしても当時のレビューや感想を参考にしておりませんのであしからずです。

まず、『キルラキル』は『天元突破グレンラガン』や『パンティー&ストッキング』などを手がけたチームによる新作で、GAINAXから独立した方たちが立ち上げたTRIGGERという会社のTVシリーズ第1弾です。
脚本は劇団☆新感線中島かずきさん。ぼくは(いちおう現在も)俳優もやっており、妙な(そして一方的な)親しみがあります。『髑髏城の七人』好きです。

キルラキル』の感想はまた機会があれば。

フリクリ』は2000年の作品。個人的な感覚では2000年って最近なんですけど、もう13年前なんですね……。光陰矢如也。『ふしぎの海のナディア』で初めてGAINAXを知ったぼくはその後の『エヴァンゲリオン』できっちり衝撃を受け、GAINAXに行けばこんなすごい世界が作れるんだ、と考えていたこともありました。
ですが、大学に入学してから演劇漬けになりアニメを見なくなりました。この時期がちょうど『彼氏彼女の事情』『フリクリ』と重なります。
エヴァのブームはまさに社会的でしたから、その後、アニメ誌だけではなく、ファッション誌にもアニメ(ほぼエヴァ)を取り上げるコーナーがあったりしていました。
フリクリ』もその文脈から知りました。『the pillowsが主題歌を担当』『エヴァを作ったあのGAINAXが制作』『おしゃれ』というキーワードが目に付いた記憶があります。

  • 舞台俳優が声優を

彼氏彼女の事情』で劇団ナイロン100℃新谷真弓さん、劇作家/小説家として今活躍している本谷有希子さんが声優として参加し、ぼくの周辺でもそれは「すごいねえ」と話題になっていました。『フリクリ』でも、引き続き新谷さん、遊園地再生事業団宮沢章夫さん主宰)などに出演されている笠木泉さん、大人計画松尾スズキさん、ナイロン100℃大倉孝二さんなどが参加されています。

  • もし難解とするならば

しばしば、作品が難解だという意見を目にします。実はキャスティングからもそれは導き出されているんじゃないかなと思います。というのも、声優さんの演技はご存じの通り俳優のそれとは似て非なるもの、言ってしまえば全く別です。深く触れなくともここら辺は数多く論じられているので十分共有できている事項かと思います。
フリクリ』は、テンポがよくスタイリッシュなカット割りや痛快なアクションでひたすら「すごいなあ」と思わせてしまう作品ですが、漂う『浮き世離れ感』は、天才的な作画陣や、少女革命ウテナスタードライバーを手がけた榎戸洋司さんのシナリオから立ちのぼるだけではなく、耳慣れた『アニメ的な演技』が『ない(あるいはあまりない)』からだなと思った訳です。
身体言語は使われず(アニメですから)、音声のみで感情を伝えるという演技方法がとられていない分、ある種抑制の効いたセリフたちは『セリフ以上の意味を宿す』ことになります。
たとえば『怒りのセリフ』をアフレコの技術で演じられたものと、身体(表情やしぐさなど)を通して語られるもの。その二つの情報伝達量は同じであっても、周波数のような部分が異なります。つまり『声』『体』『表情』と、三つの周波数の内、アニメで伝わるのは『声』の部分だけ。『体』と『表情』の周波数はカットされてしまうわけです。
すると『怒り』を声だけで『10』伝えられる演技と、『3』ないしは『4』(もっと多いこともあるかもしれませんが)、つまり『9』以下の演技では『怒り』の伝達量が変わってきます。人間(視聴者)が他者の感情をどのような場合でも合計『10』で受け取るのであれば、『10』に達していない怒りのセリフは『怒り』ではない感情で補完されてしまう場合も出てくるわけです。その余白の部分、それが、今作をさらに難解にしているんじゃないか。そんな印象を持ちました。

もちろん、それだから『いい/悪い』を論じているわけではなく、だからこそ、『フリクリ』には独特の空気感が宿るわけです。

  • 物語の軸を3本用意してみる

アニメ評論家の藤津亮太さんが開催されている講座『アニメを読む』で今夏、『フリクリ』が取り上げられて、その時藤津さんがツイッター『人に軸を置いて見るとすっきりする』というようなことを呟かれていたのを記憶しています。ぼくはその講座に参加しておらず、その言葉を念頭に置いて、今回視聴しました。

タッくん(ナオ太)とマミ美とハル子。それぞれの物語として見ると確かにギミックに目を奪われずに比較的すっきり見られました。

  • タッくんの失恋の話

兄の元彼女に付きまとわれ、相手をしているけど、自分には別に好きな人ができる。年齢差から来るコンプレックスにより大きく踏み出すこともできず、結局失恋してしまう。ナオ太の『この町からでることもなく』といったセリフから、ふと『惡の華』を連想しました。パッと見全然関連ありませんが。

  • マミ美の自立の話

海外に去ってしまった彼氏を忘れられず、面影を弟(ナオ太)に重ねている。けれども結局ハル子に心をよせていくナオ太を追わず、一人姿を消す。

  • ハル子の話

行動原理が物語の転がり方としてはおもしろいけど理解するのは難しい。ハル子は、自分の望みの為にナオ太を利用している。ナオ太を町から連れ出さず、ある存在を追って地球を去る。

  • こうしてみると

並べてみると、三人の自立の物語とも見えます。その場に留まることは依存すること。解き放たれたときに人は旅立っていく。そうして考えると最終話の最後、(年齢的なこともあるけど)町に留まっているナオ太は、やっぱり誰かに依存しているのかも知れません。最後の自動販売機前のシーンで、マミ美とかつてしたように、同級生とジュースを回し飲みしようとしているところからも。

  • 作画がおもしろい

とにかく頭おかしいんじゃないか、というくらい、作画が凝っています。凝っているというか、おかしいというか。スタッフは鶴巻和哉(監督)、庵野秀明貞本義行平松禎史摩砂雪今石洋之磯光雄吉成曜などなど。固唾をのみそうな面子です。第1話(第5話(?)にも)のコミック風のシークエンスもびっくりしました。

  • おもしろすぎてかえって見えてくる難しさ

作画がとにかくすごくて眼福でした。同時に見えてくるのは、ギャグとシリアスの切り替えの困難さ。もしくは世界観のルールの部分です。
フリクリ』には「このノリの時はギャグ、じゃないときはストーリーテリング」という明確な線引きがない為、どのカットも同じテンションで見てしまい、視聴者側からの情報の取捨選択は難しくなるのかなという印象です。それが読み解きづらい部分でもあると思います。とはいえそもそもが『読み解かれる』ために作られていないでしょうから、そこは純粋に楽しんだ方がいいのだろうと感じました。

セリフのある、長い長いPVと考えるとすっきるすることもあるかも知れません。この関連に関してはまた、別の機会に。

  • アニメのディレクターズレーベル

しばしばクリエイターが(昔ですけど)『ディレクターズレーベル』(海外のPV作品集)を参考にしていたりするように、『フリクリ』にも発想のカギがゴロゴロと転がっています。何かに詰まったときや、頭を解したいときにはボケッと見たい作品です。
ちなみにディレクターズレーベルは先日の宮地昌幸監督のトークイベントでも言及がありました。スパイク・ジョーンズミシェル・ゴンドリークリス・カニンガムアントン・コービン、マーク・ロマネックなどの世界的なクリエイターの映像作品集。ぼくもいくつか持っています。一見の価値あり、オススメです。

  • 余談ですが、大倉さんの声

アマラオ役の大倉孝二さんの声、清川元夢さんを若くしたような声だなと思いまして、ちょっと興奮しました。

  • 海外で評価が高い

ここはさっきWikipediaで見ました。海外で評価が高い理由って何だろうと考えて、一つ思い浮かんだのは、ゲームです。
今年、日本ゲーム大賞2013で『ゲームデザイナーズ大賞』を受賞した『The Unfinished Swan』。真っ白な画面に黒いペンキ玉を投げていくとペンキが広がり、風景が浮かび上がる、という前衛的なゲームです。あるいは『ICO』『ワンダと巨像』『風ノタビビト』といった、クリエイティブで意欲的な作品というのは海外がものすごい熱狂します。FPSパズルゲームPORTAL』もしかり。既存の枠を飛び越えるような作品に対して大歓迎の土壌ができているからこそ『フリクリ』もまた、大いに受け容れられたのかなと。プレイヤー、視聴者に様々な発見がある作品。

何層にも用意されたギミックは見る度に新しい発見がある。物語の成分を感受する楽しみとは別で、目の前に繰り広げられる出来事を楽しむというのも、いいなあと思わされる作品だなと感じた次第です。

フリクリ』に関してはこの辺で。

フリクリ FLCL Blu-ray BOX (PS3再生・日本語音声可) (北米版)

フリクリ FLCL Blu-ray BOX (PS3再生・日本語音声可) (北米版)

↑海外版には鶴巻監督のコメンタリーが収録されているそうです。

最近亡念のザムドを見おわったのでネタバレしまくる感想などを書きます。

Bones制作、宮地昌幸監督の『亡念のザムド』を全話見終わりました。

先日、ゲンロンカフェで開催されたトークイベント
『意外と知られていない現代アニメの作り方』
に参加しようと思い立ってから見始めていたものです。

あいにくイベント前に見終わるところまでは行きませんでしたが、幸いトークイベントでは冒頭部分や、物語の根幹部分(企画の立ち上がり方など)や、OPのことなどを中心に進められていったので、かなり楽しく参加させていただきました。

さて、ザムドの感想を。

まず、『亡念のザムド』は2008年、2009年に放送されたアニメ作品ですのでおそらく多く感想などもネットに上がっていることと思います。レビューなどもきっと多いと思います。
今回はあえてそこを経ず、まずは自分の感想を書こう、という思いでいます。

宮地監督はそもそもスタジオジブリに参加されていた方なので、キャラクターやBGにその名残は多分に感じられます。もちろんぼくもそのテンションで見始めました。

すると第一話目で、さっそく「おっ」と思いました。
ナキアミがビートカヤックと呼ばれる小型の飛行機で飛びだすシークエンス。
ラビュタが始まったのか! と。そもそもビートカヤックという乗り物自体どことなくフラップターですし、飛びだす機構もなんとなくタイガーモス号から射出される感じに似ているし、これはなんてこった。などと。

先に列挙しますと、ザムドを見て連想したアニメ作品は『未来少年コナン』『ナウシカ』『ラピュタ』『もののけ姫』などのジブリ作品、『ラーゼフォン』『交響詩篇エウレカセブン』です。ああ、これはこの成分かなー、と、シーンシーンで連想しながら視聴していました。

  • 何かに似ていることと作品の評価は別

それは作品が「いい」「悪い」ということではなく、ただ自分がそう連想できたからしているだけで物語の評価とは別の話だと思っています。「監督はこういった世界を通してこの物語を築き上げてきたんだな」と思いました。

トークイベントの際、監督はこの物語は、ほんの数行のメモ書きから始まった、といっていました。そこからふくらませて、仕事の合間にイメージボードなどを描きこの作品に取りかかるときには物語の大枠は出来上がっていたそうです。

さて。物語は、とある島に住む高校生が、偶然ウイルスのようなもの(ヒルコ)を植え付けられ、人外になってしまうことから始まります。
ヒルコは寄生獣のように人間とは別の存在なので、寄生された人間の意のままにはなりません。共に生きるか、ヒルコを拒絶して石(死に近似)となるか。ある意味ガン細胞のようなものなのでしょうか。

全編を通して気になった点は、ストーリーテリングの部分です。
登場人物たちは時おり何かの引用(監督の話ではとある人の詩集など)をしたり、雰囲気のある古風な言い回しを汎用します。
これは個人的な教養の範疇ですので苦もなく理解する人もいるでしょうが、恥ずかしながらぼくは難しい言い回しが出てくると何度か繰り返し聞いて、「ああ、そういうことか」とやっと納得する、という感じでした。
情緒のあるセリフは雰囲気や世界観を盛り上げる装置にもなり得ますが、それが続くと見ている方が、「じゃあこの世界のこと理解すんのやめる」となる危険もあるので、監督は強固な意志を持ってこのテイストを通したんだなと思いました。

セリフ回しの部分で、叙情的な散文的なものを多く入れ込むことで、おそらく「セリフの奥の世界を想像させるトリガー」にしようとしているのだなと感じることもありました。
ぼくはその部分で、世界観を取りこぼしている実感があり、おそらく二度目の視聴はよりおもしろく見られるはずです。

ヒルコを体に宿した人間はザムドと呼ばれる人外生物になります。
物語では主人公のアキユキ、親友フルイチ、雷魚、ヤンゴ、クジレイカ、そしてミドリなどがなります。
それぞれがザムドになるきっかけというか、筋道は全て異なる為、ここで少し混乱しました。つまり、どういう状態でザムドになるのか。ここは注意深く見ていないと完全に置いてきぼりになる気がします。
ヒルコを体に宿す描写は意図的に「事故」っぽく処理されており、たとえばフルイチなどはその描写は出てきません。出てきていたとしても、初見では気づきません。
ミドリに関しても、大きな装置と一体化させられるのですが、その装置の詳しい説明や描写が省かれているため、どうしてはっきりとこうなったのかはわかりません。わかる人ももちろんいると思いますが、軍でのミドリの実験関連では、先ほど述べた叙情的なセリフが多く、具体的に何を示しているのかはっきりと明かされないのです。

  • だからわからないということではない

それらの事象を過剰に説明しないこと、世界観を維持した台詞回しを続けること、ザムドという作品をそのまま受けとることで、見えてくるものがありました。
具体的なメッセージとしては、「細かいことは気にするな」です。
設定はかなり作り込まれているはずで、見えるのは氷山の一角。物語の強度は揺るがないという判断があったからこそ、あえて描かなかった部分も多かったと思います。

  • 女性が強い

いやー、強い。ナキアミ、ハル、アキユキの母・フサ、伊舟、ユンボ、クジレイカ、ブロイ、須磨子、ミドリ。みんな、何かを抱えながら、何かを引き替えに前を向いている人ばかりです。

  • 前を向いて待つ/進む

最終話、アキユキを待ち続けるハルと、ナキアミを待ち続けるヤンゴ、という四人の存在はいいなと思いました。待っているハルもヤンゴも、それぞれがちゃんと成長していたことも。「待つ」ということは「立ち止まる」こととは違う。それをハッキリと描いていました。

このままうだうだと書いてしまいそうです。

  • 作品から受けとったメッセージ

「前を向いて進め」というキーワードは頻出するのでもちろん。
印象に残ったのは、親の存在です。
かつては若かっただろう親父お袋たち。彼らの奮闘がかなりの分量で描かれます。
最終話でハルの述懐でも出てきますが、向こう見ずに夢だけを追いかけられていた若い頃とは違い、理想と現実の狭間で揺れながら、多くの理想を諦め現実と折り合いを付け続けてきた大人たち、その彼らが、今一度、夢を抱いている世代の為に立ち上がる。追いかける。走る。
大人の役割、と、大人でもできること、それをどうしても描いておきたい、という強い思いを受けとりました。
ぼく自身、配偶者や子どもはいませんが、彼らの親に近い年齢になりましたし、二十代よりずっとずっと共感して見ることができていると思います。
夢を繋げること、人を思うこと、思いを伝えること。

最終回で、物語は9年を経ます。(Bパート)。
なんですと〜、と字幕を見たときは思いました。見て納得しました。登場人物たち、それぞれにちゃんと結末を、あるいは物語の続きを、あるいは人生を用意している。それを描きたかったんだなと。特に頭に拳銃の弾をぶち込まれた凍二郎が一命をとりとめていたという場面には吹き出しました。盛大に心で突っ込みながら、よかったなあ、と喜んでいる自分がいました。もちろん、一番最後のアキユキも。

物語に悪人は出てこない。ステレオタイプに落とし込むことなく、ミスリードで悪人を仕立てていく。でも実は善意のつもりで進みたどり着いた先が、主人公側から見ると「悪人」と見えるものになっていた。
こうやって成分だけ分解して書くとよくありそうなものですが、要はそれをどういうアプローチで描いて行くか。そこに作品の魂は宿るのかなと思います。

  • 盛大なネタバレのフィナーレは

「ずっと言えなかった言葉」をアキユキとハルは最後にかわします。
(余談ですが『言えなかった言葉を言うよ』といったセリフがあると、エヴァで加持がミサトの家の留守電に入れていたのをいつも思い出します)

アキユキとハルは「愛してる」と言葉を交わします。
その時、二人はお互いの顔を見ていません。
特にアキユキは海から視線を離さず、後ろから隣へと歩いてきているハルに向かって言います。
「なにちょっと、失礼じゃない? 超テキトーなんだけどー」と、一瞬ぼくの中の女子高生部分は言いかけました。でもそうじゃないですね。
二人は常にお互いの存在を目の前に感じることができるから、面と向かうことなんて必要なかった。
9年もの間、ハルは石となっていたアキユキに話しかけ続けてきた。そしてその言葉を「ずっと聞いていたよ」とアキユキは言います。
将来、もしかしたら別居して、アキユキの両親、リュウゾウとフサのように険悪になっているかもしれません。だけどきっとそれは「嫌い」だからではなくて、お互いの感情のすれ違いがそうさせるだけ。その時はまた「言葉」を相手に「届け」ることで、元に戻るんだろうな。そんなことを想像させるシーンでした。
また、二人が見つめ合うことで二人の世界を完結(閉じ)させるのではなく、大きく広がる海へ向けたことで、「前を向く」こと、また二人の未来は明るいんだろうな、と思わせ、実に優しい終わりでした。


それにしてもアクシバ……、お前、いいやつだぜ! 幸せになれよ!

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「さよなら」をいわないさようなら(こじらせてなんかいない)

みっちぇるが脱退しました。

なんの話かといいますと、新生アイドル研究会BiSのミチバヤシリオことミッチェル(愛称)が、9月22日、女川秋刀魚収穫祭2013でのライブを最後に、アイドルをやめました。ということです。

脱退が決まってから、ぼくはほとんどBiSの現場に行けませんでした。
8月のシェルターライブと9月1日のZeppDiversityTokyoには行きましたけど、リリースイベントは行けませんでしたし。
シェルターのライブは熱量がすごかった。BRAHMANの最前エリアがライブハウス全体に及ぶ感じ。おろしたてのTシャツがけばけばになりました(笑)。
ダイバーの足がガンガン頭にぶつかったり……。

ぼくが行ったライブはそんなところでしょうか。

BiS、というか、アイドルのだいたいの現場はCDを買うと「イベント券」がついてきて、一枚で握手、2枚以上でチェキ、などとなっていきます。
「接触」というものです。

ぼくはBiSがアイドルとの接触は初めてだったのですごい緊張したのを覚えています、というか、今でも緊張します。
ただ、握手したり、チェキを撮ったりするとすごく気持ちが入ります。
だからもっともっと応援したい、と思う。

現場に行って感じた事だけでいいますと、熱心なオタさんは界隈というのか、各アイドルにはオタグループがあって、そこに「TO」と呼ばれる、つまりオタの中でもトップの、トップオタがいる、という状況なんだと思います。その周辺には、仲のいいオタさんが集まって界隈を形成している。コミュニティーが出来上がっているわけです。

TOさんをはじめ、界隈でも名の通ったオタさんはアイドルのメンバーも認知していて、特にBiSはその交互の関係がすごくいい。と感じました。
ライブ現場の秩序を守ったりしているのも、生誕イベントを企画しているのもTOさんはじめ、有名オタさんたち、有志の人たちに寄るものなんだ、というのも。

話がずれました。

そんな中で、じゃあ自分はアイドルに認知してもらえるのだろうか。
そもそも認知してもらいたいのだろうか。

そんな面倒くさい疑問がわき上がってきました。

アニメ「惡の華」で10話(あたり?)で高男が佐伯さんに「ミューズでいてほしかった。人間だって思いたくなかった」と告白する場面がありますが、
それに似ているなと思いました。

神性や偶像として、熱狂したい、という気持ち。

だからアイドルと握手するたび、「なんでもないことなんだ」と自分に言い聞かせる度、
自分がアイドルに対して抱いている神性がそぎ落とされていく気がして、
それもまた緊張を高める装置になったりしました。

それから、認知をされた瞬間、自分自身も、他のオタさん達と同じ土俵に上がり、
そのアイドルからの認知のされ具合を比較してしまうという空しいシーソーゲームに、
心中は穏やかならぬ状況になったり。

つまり、誰かと比べられるのは自信がないし、誰かより自分が、
アイドルにとってより大きな存在になる自信もない、ということでしょうか。

たぶん自分が他より特別である、とか、自分だけ、みたいな気持ちがあるから、
そんな小さな劣等感が生じるんだと思いますが、
それを避けるためにはある程度の距離を取った方が安定します。

そんなことも考えつつ、ミッチェルとの接触には挑んでいました。

いや、こじらせてなんていない。

ただ、自分でもこんな状態はよくないなと思ったので、
本来の自分の得意なポジション、少し遠目から見守る、という立ち位置にシフトを移しただけではあります。

それでもミッチェルとのお別れを、現場でできなかったのは心底寂しいと思います。

だけど、それは一つは、自分的にはお別れをしていないのだから、
またいつか戻ってきた時に、もはや「おかえり」すらも言わずに、
今までと同じように、応援できるための準備である、と自分に言い聞かせながら、
でもふと思い出した時、次回、BiSのライブ、みっちぇるのいない現場を目の当たりにした時に、
ひっそりと悲しくなるんだろうなと。

それでも涙を流すのは、TOさんや、熱心に心身ともにみっちぇるに捧げていたオタさんの役目なんじゃないのか、と思ったりしていて、
そういう一つの、いや、いくつものフィルターを通した上で、言わせていただきますが、

みっちぇる、お疲れさまでした。

推しが脱退するという経験は初めてで、ちょっと戸惑っていますが、
それでも応援してきてよかったと思います。

ありがとうございました。

この先のみっちぇるの人生にも、BiSの経験以上のものがありますように。
町中で見かけたら、にやりとするかも知れませんが、
そのくらいは許してください。

応援しています。

近況のお知らせ

ずいぶんと久しぶりの更新となりました。
最近のお仕事お知らせは、

アニメ!アニメ! にて「キャプテンハーロック」荒牧伸志監督のインタビューを担当いたしました。

■また同じくGLEE版「ベルセルク」のプレイインプレッションも書かせていただきました。
こちらは事前にかなりみっちりとゲームプレイをしました。
世界観の再現度が高くてかなりおもしろいゲームだと思います。

WebNewtypeでもレポートを中心に記事をざくざくと書いております。
無記名記事ですので、単純に記事を楽しんでいただけたらなと思います。

またいろいろとご報告できるようがんばります。

■役者業でもいくつかお仕事をしております。
きちんと報告できるのがメディアに載ってから、というのもありますので、
なかなかドンとお知らせできておりませんが。。
こちらは所属事務所ダックスープのHPに詳しいですので、
ぜひぜひご覧下さいませ。
近々ですと映画「潔く柔く」に(ワンシーンだけ)出演しております。
主演が長澤まさみさんと岡田将生さん。原作はいくえみ綾さんの漫画です。
じんわり心に染みわたる作品ですので、ぜひ。

■ラジオCMなどにもナレーションで出演しております。

お仕事お待ちしておりますー。
(俳優のお仕事はダックスープまでご連絡くださいませ)